次回は
魂の宿し方
私が仕事でコンテンツ制作やクリエイティブな物事に直面した時に、いつも本当にキリキリさせられることがあります。
当たり前に知っているべき魂の宿し方を知らない人が多すぎるのです。
あらゆる作品は作る過程で魂を宿して完成するのです。
絵はキャンバスに絵の具をぬるだけでは完成せず、必ず魂を宿す必要があります。
ゲームを作る時、プログラムを書いて絵を当てて音を組み込み、そして魂を宿したら完成です。
音楽だってなんだってそうなのです。
クリエイター気取りの彼らは真似事屋なのです。モノマネばかり。
本当に本当に許せないです。当然売り上げをあげなきゃいけないし、ペイ(黒字化)できて当然であるべきで、いかに儲けるかが大事。
でも彼らは本質的な部分がわかっていないのです。
ものを作ったり表現すると言う行為の本質には、
それを”したい”理由があります。
例えば、ご飯を作るのは、お腹が空いたから。
お腹を満たしたい。別にお腹を満たすだけならなんでもいけるけど、
美味しいご飯でお腹をみたしたい。
だからご飯をつくるのです。
別にご飯炊いて、お魚焼いて、お味噌汁を作る行為がしたいわけではありません。
「美味しいご飯でお腹をみたしたい」のです。
だから「美味しいご飯でお腹を満たしたい」という思いが、作っているごはんに込めているのです。
今の時代のモノマネ制作者たちは、「ご飯炊いて、お魚焼いて、お味噌汁を作った」はい、これでご飯できたでしょ?と思っているのです。
本来この過程において「美味しいご飯でお腹を満たしたい」という思いを込めることで魂が宿るのです。
この魂を宿す行為を抜け落ちた状態のままで、真似事をやって、何か違うと悩んだり、多くの場合は何か違うことすら気づかずにできたつもりでいる。それがすごく大きな問題なのです。
たとえば、可愛い女の子の絵を書きたい!って思った作者がいたとして、可愛い女の子の絵を「可愛い女の子の絵を書きたい!」と思いながら描いたとします。そうしたら魂は宿るんです。
ただ、今流行っているので可愛い女の子の絵を描いて見ました。では、魂は宿らないのです。
何を作るにしても、それを作ろうとした理由がもともとあり、その思いを込めて作らなければ、魂は宿りません。
音楽も同じ。音を並べれば曲ができるのではありません。曲っぽいものができるだけなのです。素敵な音楽を作りたい。作る行為自体が楽しい。思いは多種多様ですが、思いをこめて作らなければ、何一つ本物は作れないのです。
夢がない人へ
夢がない人へ。
それは幸いなことである。
人生は夢を追うためや叶えるためにあるわけではない。
人生はただ生きるためにある。生きて死ぬためにある。
夢がある人へ。
それは幸いなことである。
人生は夢を追うためや叶えるためにあるわけではない。
人生はただ生きるためにある。生きて死ぬためにある。
しかし、夢を追う生き方もあるだろう。好きにしたらいい。
夢ありますか?問題。
夢追いの人からみたら、夢を持たない人は奇異である。何が楽しくて生きているのだろうか?と。
夢を持たない人からみたら、夢追いの人は羨ましい反面、大変そうに見える。もっと穏やかに生きてもいいのではないかと。
私は芸術家なので、そもそも内的な表現欲求はきっと人より多く持っているので、夢追い側である。そして不器用だから夢を捨てられない。それでも夢を持たない生き方をする日を作りたいと思い、日々挑戦している。
生きることに意味はなくてよい。この前提に立たないと、実は創作欲求は非常に不安定になってしまう。土台がしっかりしていないといけない。しっかりした土台というのは、生の無意味性である。いつでも手放すつもりでいることである。知識も名誉も何もかもを。実はこれがうまくできているのは、夢を持たない人たちだ。ただ生きる。毎日に追われて生きる。ある日ふと振り返って、人生このままでいいのかと迷う。そんな不器用さは実は重要だと思う。
夢追いが、夢追いたる所以の夢を土台に置くと、極論的には、夢叶うか叶わないかというところに陥ってしまう。そして、すこし悟った感じで、好きなことをやり続けることが大事とか、結果は問わないとか、こんな生き方で俺はいいんだとか言い始める。
私としては、皆好きにすればいいと思うのだが、私の中での答えというか、1つの考え方としては、夢とか好きなことを意識しすぎないほうがいいのではないかと思う。意識はして欲しいんだけど、意識しすぎると、上記のように夢が叶う叶わないや、この生き方でいいみたいな考え方になってしまうのではないかと。
私が思う理想形は、生きることに意味はないし、ただ生きて、なんとなく気が向いて好きなことをやっていた。疲れたら休み。嫌いになったら距離を置く。好きになったら、また始める。こんな感じでいいのではないかと。
正しく生きる必要もなければ、偉くなったり有名になる必要もない。自然体で好きな時に好きでいたらいいとおもう。
次に、夢が欲しいんだけどという相談について。
夢の見つけ方は色々な書物で書かれている。
しかしもっと大局的に見て、まだ見たこともないものを見つける方法というのがある。これを小さく切り取ると夢の見つけ方になるので、今回はこの大局的な方法を書こうと思う。
ありがちかもしれないが、
イメージすることである。想像してみることである。あったらいいな。自分の心に聞いて、理想が何かを思い浮かべる。その理想的なイメージをあれこれふくらましたり、細部までイメージしたりするのである。(細部までイメージをするのは、イメージを膨らませるためであり、限定的なイメージを創るためではない)
次にアンテナを立てる。心のアンテナを。これよくアニメでいわれるところの「アホ毛」に似ている。知らない人に説明すると、頭の上からぴょこんとアンテナが1−2本立っているイメージをしてもらえればいいだろう。1本とは限らない。
人間には5感があると言われている。あの、味覚とか、聴覚とか、そういった類のものである。実は夢を感じる感覚は人によって感覚器の数が違うのだ。すなわちアンテナの数が違う。1本の人もいれば、数本の人もいる。これが何を示唆しているのかといえば、イメージを固定化するなということである。「あったらいいな」がどこかにある。曖昧な形である。それを探しに行くイメージである。
なぜイメージが大切なのか。妄想すべきか。それはすごく簡単で、目を開くために必要だからである。見えていても感じられない。聞こえていても気づかない。人は往往にしてそういう状況になっていることがおおい。
「あるかもしれないっ・・・」という思いを描くことは、その人の目を本当の意味で開く。すると、それに出会った時に気づけるのである。気づける状態を創るために必要なのである。
是非一度試して見て欲しい。家から駅までの道のりをいつもと違う道で行って見て欲しい。自分がいつも通る道の裏路地にこんな場所があったのかと発見は多いだろう。自分が生きてる世界のうち、5%くらいしか実はアンロック(意識)されていない。物語が進めば、それがどんどんアンロックされてアクセスできるようになるわけだが、大切なことは「そこにこれがある」と気づけることである。
場の力
着想は主に2種類いる。
幽霊に例えるなら、地縛霊とさまよっている霊だ。
着想には場にとどまるものと、時間と場所を超えて走り回っているものがいる。共通しているのは、心の地下道におり、人々の心の奥の扉をノックして入ってくることだ。
ここから先は、まだ研究途中だし、よくわからないことが多い。
仮説も交え、私の考えを述べると
・自然的着想とは場にとどまるものと、時間と場所を超えて走り回っているものがいる。
・着想は外に出たがっている。だから心の奥の扉を叩く。
・誰かが着想を生み出しばらまいている。誰かはわからない。神か?
・着想はそれそのものでは物質世界には関与できず、精神世界をさまよっている。
・場にとどまる着想は、その場にいったときに扉をノックしてくる。だからアイディアが行き詰まって来たら、場所を変えるのが良い。
・着想は誰にも扉を開けてもらえないと死んでしまう?消えてしまう?
・着想の寿命はまちまちでよくわかっていない。
・誰かが扉を開け、着想を向かい入れても、それをアイディアとして口に出さずに終わることもある。だが着想としては扉を開け受け入れられた時点で寿命を迎える。
・同じ着想が複数存在する場合がある。それが遠く離れた場所で同じことを考えていた人がいたという事例となって現れる。
・共通地下道が全ての人の心に繋がっているというと、まるで精神的に我々は大きな1つの個体もしくはネットワークを持った存在だと誤解されるかもしれない。より正確な例えをするなら、この地球上の人間は皆同じ空気を吸っている。空気は繋がっている。こう言えばわかるだろうか。
共通地下道
アイディアはどこからくるのか?
インプットが必要という意見、それは間違いです。インプットは必須とはかぎりません。
要素を足したり引いたり?それも必ずしも必要ありません。あれは工夫の方法を探す手法です。いわゆるアイディア思考法は、どれも人為的な着想の得方であり、自然的な着想の得方ではありません。
神の国からインスピレーションを得るためには共通地下道を意識する必要があります。
この世界の全ての心の奥は繋がっていて、自分から相手の心に尋ねることもできるし、相手の心から自分の心へ尋ねることもできます。全ての人の心をつないでいる道を共通地下道と例えます。
共通地下道は非常に不思議な世界で私も全てを解き明かしていません。ただ知ってることの1つとして、自然的な着想は自主的に動き回っていると言うことです。意思を持って自発的に色々な人の心の奥にある共通地下道と繋がっている心の扉をノックして回っています。
ほとんどの人は心の奥の扉を意識していませんし、共通地下道みたいな発想もまるで知らないので、ノックされても気づかないのです。
心の奥の扉を知っている人は、ノックされると気づきます。あとは扉を開け、自然的な着想が外に出たい=つまりあなたの心の中に入っていきたいという主張を飲むかどうか決めるのです。
世の中の人は、突然ノックされ、着想を受け入れるという行為を全て無意識でやって・・・、神の天啓が来たと言います。
同時期に遠く離れた人が同じアイディアを思いつくのもこれに関係しますし、時代を得て見つけられるのも、自然的着想が走り回ってようやく扉をあけてもらえたというわけです。
なぜ自然的な着想は生まれ、なぜ扉をノックして回るのか。
次回書きます。
投げ込まれた私
何を書こうか、ずっと悩んでいた。
10年ぐらい前から「神の国への至り方」を書きたいと思っていた。
この売れていない芸術家が、現代の人、そして未来の人に
神の国への至り方を残しておきたいと思ったのだ。
売れてない芸術家が書くのでちょうどいいと思う。
成功者の言葉にしか耳を貸さない者へ教えることはないからである。
神の国とは創造の源である。
アイディアはどこからやってくるのか?と問われれば、明らかに共通地下であるが(共通地下についてまた別のトピックで詳しく書く)、アイディアに満たされる。創造の源に繋がった状態こそ、神の国へ至れるのである。
私はそのためのヒントを書きたいと思っている。
これは完全な地図ではない。不完全である。
しかし桃源郷への完成された地図なぞないのだ。
この神の国へ至る方法を読み、自分なりに試行錯誤して、たどり着いた神の国へ遊びに来て欲しい。
「投げ込まれた私」
この世界に生まれるとはどういうことかわかるだろうか?それは水槽に投げ入れられたに等しい。昔、聖剣伝説legend of manaというゲームがあったが、あのゲームのステージ選択にそっくりである。
すでにある世界に、卵を投げ込むのである。そして落ちた場所に根付くのである。我々は予告なしに説明なしに、この世界に投げ込まれた。だから意識を持った瞬間から周りをみて、この世界はどういうものかを観察し順応する。
人生って何だろう?あなたの中にその答えはあるか?生きて死ぬことか?もっと言えば、学校を卒業し、働き、結婚し、老後はのんびり過ごすことか?
その何となく心の中にある、この世界を分かったつもりの考えが危険であり、間違いである。人生がどう言うものかは生きて死ぬまでわからないし、地域によっても身分によっても変わる。大変幸福な人生もあれば、大変不幸な人生もある。いや、ここで伝えたいことはもっと原始的な、この世界ってたくさん人間がいて、いろんな国があって、食べ物を食べないと生きていけないとか、みんな仕事しているとか、服着てるとか、そう言うこと自体がよくわからないということである。
どう言う人生を送るかもわからない。なぜここに生まれたかもわからない。種を残す意味もわからない。どうして自分以外のものからエネルギーをえるのかもわからない。食べるとは何か?わからない。行為・生理的なそう言う部分に名前をつけて、理解したことにするが、結局はわからない。
結局、この全ては【わからない】この一語に集約できる。
この、わからない、こそがはじまりであるし、生まれると言うことである。
わからないことこそ、誕生なのだ。
もしあなたが神の国に至りたければ、
そうだな・・・芸術家としてインスピレーションを得たいのなら
この世界は全てわからない。わからないことを感じて欲しい。
わからなければ、もっと知りたくなる。あれこれ考えたくなる。
目を閉じて全身で世界を感じたくなる。
だってわからないからだ。わからないことは怖い。わからないことは面白い。
ぐちゃぐちゃになった気持ちがわからないという気持ちと対峙する。
そうやって、わからないを感じるのだ。
私はこの世界に放り込まれた。あの時も、そして今も、全くわからない。
そのわからないを感じれば、神の国の存在に気づけるだろう。