夢がない人へ

夢がない人へ。

それは幸いなことである。

人生は夢を追うためや叶えるためにあるわけではない。

人生はただ生きるためにある。生きて死ぬためにある。

 

夢がある人へ。

それは幸いなことである。

人生は夢を追うためや叶えるためにあるわけではない。

人生はただ生きるためにある。生きて死ぬためにある。

しかし、夢を追う生き方もあるだろう。好きにしたらいい。

 

夢ありますか?問題。

夢追いの人からみたら、夢を持たない人は奇異である。何が楽しくて生きているのだろうか?と。

夢を持たない人からみたら、夢追いの人は羨ましい反面、大変そうに見える。もっと穏やかに生きてもいいのではないかと。

私は芸術家なので、そもそも内的な表現欲求はきっと人より多く持っているので、夢追い側である。そして不器用だから夢を捨てられない。それでも夢を持たない生き方をする日を作りたいと思い、日々挑戦している。

生きることに意味はなくてよい。この前提に立たないと、実は創作欲求は非常に不安定になってしまう。土台がしっかりしていないといけない。しっかりした土台というのは、生の無意味性である。いつでも手放すつもりでいることである。知識も名誉も何もかもを。実はこれがうまくできているのは、夢を持たない人たちだ。ただ生きる。毎日に追われて生きる。ある日ふと振り返って、人生このままでいいのかと迷う。そんな不器用さは実は重要だと思う。

夢追いが、夢追いたる所以の夢を土台に置くと、極論的には、夢叶うか叶わないかというところに陥ってしまう。そして、すこし悟った感じで、好きなことをやり続けることが大事とか、結果は問わないとか、こんな生き方で俺はいいんだとか言い始める。

私としては、皆好きにすればいいと思うのだが、私の中での答えというか、1つの考え方としては、夢とか好きなことを意識しすぎないほうがいいのではないかと思う。意識はして欲しいんだけど、意識しすぎると、上記のように夢が叶う叶わないや、この生き方でいいみたいな考え方になってしまうのではないかと。

私が思う理想形は、生きることに意味はないし、ただ生きて、なんとなく気が向いて好きなことをやっていた。疲れたら休み。嫌いになったら距離を置く。好きになったら、また始める。こんな感じでいいのではないかと。

正しく生きる必要もなければ、偉くなったり有名になる必要もない。自然体で好きな時に好きでいたらいいとおもう。

 

次に、夢が欲しいんだけどという相談について。

夢の見つけ方は色々な書物で書かれている。

しかしもっと大局的に見て、まだ見たこともないものを見つける方法というのがある。これを小さく切り取ると夢の見つけ方になるので、今回はこの大局的な方法を書こうと思う。

ありがちかもしれないが、

イメージすることである。想像してみることである。あったらいいな。自分の心に聞いて、理想が何かを思い浮かべる。その理想的なイメージをあれこれふくらましたり、細部までイメージしたりするのである。(細部までイメージをするのは、イメージを膨らませるためであり、限定的なイメージを創るためではない)

次にアンテナを立てる。心のアンテナを。これよくアニメでいわれるところの「アホ毛」に似ている。知らない人に説明すると、頭の上からぴょこんとアンテナが1−2本立っているイメージをしてもらえればいいだろう。1本とは限らない。

人間には5感があると言われている。あの、味覚とか、聴覚とか、そういった類のものである。実は夢を感じる感覚は人によって感覚器の数が違うのだ。すなわちアンテナの数が違う。1本の人もいれば、数本の人もいる。これが何を示唆しているのかといえば、イメージを固定化するなということである。「あったらいいな」がどこかにある。曖昧な形である。それを探しに行くイメージである。

なぜイメージが大切なのか。妄想すべきか。それはすごく簡単で、目を開くために必要だからである。見えていても感じられない。聞こえていても気づかない。人は往往にしてそういう状況になっていることがおおい。

「あるかもしれないっ・・・」という思いを描くことは、その人の目を本当の意味で開く。すると、それに出会った時に気づけるのである。気づける状態を創るために必要なのである。

是非一度試して見て欲しい。家から駅までの道のりをいつもと違う道で行って見て欲しい。自分がいつも通る道の裏路地にこんな場所があったのかと発見は多いだろう。自分が生きてる世界のうち、5%くらいしか実はアンロック(意識)されていない。物語が進めば、それがどんどんアンロックされてアクセスできるようになるわけだが、大切なことは「そこにこれがある」と気づけることである。